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文=片山恭一
写真=小平尚典
アートディレクション=東裕治

裏ななつ星紀行 第三話   二日目(前編)

 十一月五日、火曜日。旅の二日目。スッポンを食べたぼくたちは元気だ。小平カメラマンの肌は、いつにも増してつやつやしている。本日の旅程は、シニアにしては強行軍と言える。大分から宮崎経由で鹿児島へ行くことは早々にあきらめた。わずかな区間とはいえ特急を使うことは、やはりわれわれの旅に拭いがたい汚点を残す。そこで大分から阿蘇高原線(豊肥本線)で熊本へ出て、鹿児島本線で南へ向かうことにする。また明日は魔の第二水曜日なので、肥薩線にはどうしても今日のうちに乗っておかなければならない。時刻表を調べてみると、大分を午前九時十五分に出て、わき目も振らずに普通列車を乗り継いでいくと、午後八時二十一分に鹿児島へ着くことがわかった。十二時間近くかかることになるが、ここは攻めるしかない。とりあえず乗っていればいいわけだし、のんびり気楽にいこう。

ぼくは持ってきたウラジーミル・ナボコフの文庫本を取り出して読みはじめた。初期の長編である。昨日まではマラマッドの短編集を読んでいた。こちらも悪くない。むしろ良い作品が多いのだが、出てくるのは貧乏人ばかり、ほとんどが惨めで陰気で絶望的な話だ。ある意味、「裏ななつ星」の旅にはふさわしいとも言える。しかし今回、ぼくたちが追求しているものとは、ちょっと趣が異なる。しかるべき状況であらためて読むことにして、ナボコフに切り替えたというわけだ。
 裕福な美術評論家である中年男が、十六歳の少女と出会う。最初は軽い火遊びのつもりだった。そのうちに男は少女に心を奪われ、妻と娘を捨てて家を出ることに。ところがこの少女が性悪で、ひそかに昔の愛人と縒りを戻して男を裏切りつづける。家族と別居しているあいだに、男の愛娘は病気で亡くなる。自暴自棄になった男は、自らが運転する車で事故を起こして失明し、目が見えなのをいいことに少女と愛人の悪党二人組にもてあそばれ、果ては財産を騙し取られ、そのことに気づいた男は盲目のまま銃を持ち出し、少女に復讐しようとするが……なぜこんな本を持ってきたのだろう?

 ぼくたちが乗っているのは一両編成のワンマン列車だ。平日の朝とあって、大分を出てしばらくは通勤や通学の人で混み合っていたが、ほどなく乗客の大半は降りて、車内は静かになった。列車が登りにかかると、独特のエンジン音が大きくなる。都会ではほとんど乗る機会のないディーゼルカーだ。懐かしい。ぼくが生まれた四国では、「電車」といえばディーゼルカーのことだった。電化されたという話は聞かないから、いまでも走っているのだろう。
 十時半に豊後竹田駅を通過する。どこからともなく「荒城の月」が聞こえてくる。ここは滝廉太郎の出身地だ。今回は立ち寄る時間がないけれど、岡城には楽聖の素敵な彫像が建っている。列車は右に左にカーブする鉄路を力強く登っていく。眼下に田畑がひらけ、標高が高くなっているのがわかる。幾つものトンネルを抜ける。トンネルに入る前に、列車は短く警笛を鳴らす。窓の外を、小さな滝が通り過ぎていく。暗い森のなかを流れ落ちる清らかな水、鬱蒼と茂る森の木々、刈り入れを終わった田んぼ。人家はほとんど見えなくなっている。植林された杉や檜が高木に育っている。人間の時間の力は弱まり、五十年、百年を単位とした自然の時間が濃くなってくる。

 十一時過ぎに宮地駅に到着する。ここは阿蘇のど真ん中。駅の近くに阿蘇神社がある。大分から乗り合わせたオランダ人のカップルは、バックパックを背負って神社の方へずんずん歩いていく。エージェントに二十日のプランを組んでもらい、日本各地をまわっているという。二十日である! いいなあ。ぼくたちも二十日くらいかけてヨーロッパをまわってみたい。パリだけでも一週間はいたい。そこから列車でイタリアへ。フィレンツェで五日、ベネツィアで三日。移動を含めて二十日間だ。いつかそういう旅をしよう、と心に固く誓いながら、とりあえず駅前のパン屋さんでサンドイッチを買う。

 十一時四十六分、二両編成のワンマン列車で熊本へ向けて出発。オランダ人のカップルも乗っている。三十分で阿蘇神社へ行ってきたのだろうか。かなりな旅の達人と見た。それにしてもいい天気だ。中年ダメ男の破滅小説など読んでいる場合ではない。右には阿蘇の外輪山、左に阿蘇五岳を望みながら走る列車の旅は、まさに身も心も洗われるようだ。仮にいまここに、可憐な少女が一糸まとわぬ姿で現れたとしても、「きみ、ちょっと邪魔」と一点の曇りもない気持ちで言う自信があるぞ、おじさんは……たぶん。
 先ほど買ったサンドイッチとコーヒーの昼食。美味しい。小平カメラマンは焼きそばパンなどという面妖なものを食べている。ぼくはピザ・トースト。こちらもなかなかです。赤水を過ぎて立野へ。立野駅へはスイッチバックで入る。運転士さんは前と後を行ったり来たりして大変だ。十分ほど停車。ホームに降りて写真を撮る。 福岡に住んでいるぼくは、阿蘇や九重には車で気軽に来ることができる。いつ来ても、いいところだなと思うのだが、車の運転は意外と気忙しい。日曜・祭日や観光シーズンは車が多く、ところによっては渋滞している。平日は平日で飛ばしている車が多いので、景色を見ながらのんびりドライブというわけにもいかない。いつも何かに急き立てられ、時間に追われている感じだ。こんなにのんびりした、寛いだ旅は久しぶりである。あらためて「裏ななつ星」の魅力、普通列車の旅の良さを感じる。

 熊本市に近づくと、大勢の人が乗り込んできた。四人掛け席の斜め前に、一人の女が腰を下ろした。山吹色のセーターの下で大きな胸が盛り上がっている。余り手入れをしていない髪に眼鏡をかけて、ちょっとジャニス・ジョプリンに似ている。ひっきりなしにひとりごとを言っている。自分の隣に坐っている、見えない誰かに話しかけているらしい。目を閉じていると、女の話しかけている人物が実際に乗っていると錯覚しそうになる。それほど女のひとりごとには表情があって、真に迫っている。男の気配を感じた。彼の体温を、輪郭を、存在の全体的な印象を。男は彼女の横にいた。ときおり「うん……うん」と寡黙に頷いている。その声は、まわりの雑音にかき消されて届かない。
 列車が停まった。女が席を立つ気配に、ぼくは目をあけた。すでにドアの方へ移動している。あいかわらずひとりごとを言っている。やがてドアが開き、女は他の乗客とともにホームへ吐き出された。ぼくは夢から覚めたような気分で、四人掛けの座席に一人取り残されていた。少し精神的に障害があるらしい女の、孤独な発話行為には違いなかった。しかし彼女のお喋りは、言葉を向けられる者をリアルにつくり出し、その存在を出現させていた。ぼくたちが小説でやろうとしていることも、それと同じようなことなのである。

第四話に続く…(6月4日頃午前中更新)

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